第2部 三つの星


第1章 出会う者たち

煙突街の夕方は、いつも判断を保留する。
昼が終わったのか、夜が始まったのか、誰にも分からない。

工場の排気が空に溶け、赤くなりきらない夕焼けが街を覆っていた。
煙突は今日も働いている。人もまた、同じように。

シャッターを半分下ろした工房で、アニンは工具を拭いていた。
油の匂い。鉄粉。遠くで鳴り続ける稼働音。
この街は、止まらない。止まらないことだけが、救いになる夜がある。

ノックの音は控えめだった。
叩く側が様子を測っている音だ。

「開いてる」

返事はない。
代わりに、何か重いものを引きずる音がした。

振り返ると、男が立っていた。
痩せているが体の芯は緩んでいない。
目だけが落ち着きなく周囲を測っている。

「……これ、直せるか」

床に置かれたそれは、スピーカーのような形をしていた。
だがアニンは一目で違和感を覚えた。

音響機器にしては配線が多すぎる。
構造が過剰で、用途が一つに収まっていない。
素材も、見慣れない。しかも——壊れている。

「名前は」

「マーク」

それだけ言って、男は黙った。

アニンはしゃがみ込み、装置に触れた。
その瞬間、胸の奥で小さな警鐘が鳴る。

重さがおかしい。
金属の反発が、知っているどの素材とも違う。

分解する。配線を追う。構造を読む。
——読めてしまう。

理解できる。
だが、その理解の仕方がどこかズレている。

(見たことはない……)

それなのに、「知らない」と言い切れない。

「直せる」

自分の声が、思ったより低く響いた。

マークは短く息を吐いた。

「鳴る?」

アニンは答えなかった。
代わりに、作業を続けた。

時間は、煙突街らしく流れた。
早くもなく遅くもなく、ただ“働く速度”で。

数時間後、装置は形を取り戻していた。
歪みは消え、回路も整っている。

だが——鳴らない。

マークは何度もスイッチを確かめた。
叩き、角度を変え、電源を落とす。

「壊れてない」

アニンは言った。

「でも、鳴らない」

沈黙が落ちる。

マークはポケットから小さな袋を出し、作業台に置いた。
乾いた草の匂いが広がる。

「修理代だ」

「いらない」

「……理由は?」

アニンは装置から目を離さずに答えた。

「俺は、これを“使う段階”まで責任を持てない」

マークは少しだけ笑った。

「……あんた、軍にいたんだろ」

アニンの手が、一瞬止まる。

「人生、色々ある」

「組織なんて、どこも腐ってる」

それ以上、踏み込まなかった。
だがマークは確信していた。
——この男は引き金を引いたことがある。

アニンの中では、別の感覚が芽生えていた。
鳴らない理由を感覚で終わらせてはいけない。
理屈で否定できるなら、今のうちに潰す。

だから——行く先は一つしかなかった。

夜。
煙突街の住宅街は、工場の灯りだけが規則正しく瞬いていた。

「……ここだ」

アニンは足を止めた。

大学教授の家。
昔、何度も読み返した論文の著者。
人類の未知遺産、再現できない装置、そして——使われた痕跡。

理屈で否定できるなら、ここで終わらせたかった。

インターホンを押す。

扉が開いた。

出てきたのは、教授ではなかった。
若い女性だった。

「……チオ、お客さんかい?」

家の奥から、誰かが彼女の名前を呼んだ。

第1章・了


第2章 反重力スピーカー

家の中は、音が少なかった。
静かというより、音を抑え込んでいる空間だった。

本棚に囲まれた書斎で、チオの父は二人を迎えた。
机の上には論文の束と、書き込みだらけのノート。
世界中で引用される、愛の研究。
感情を定義し、衝動を整理し、人が人を想う理由を理屈に落としてきた第一人者。

父は装置を一瞥しただけで視線を逸らした。

アニンが一歩、前に出る。

「反重力スピーカーだろ」

父の眼鏡の奥で、視線がわずかに揺れた。

「鳴らない理由を知りたい」

マークは壁にもたれ、腕を組んでいる。
興味がなさそうな顔のまま、会話の出口だけを探していた。

「構造は理解できる。修復もできた。
 それでも鳴らない」

父は深く息を吐いた。

「……その名前を、どこで知った」

「論文で」

アニンは即答した。

「人類の未知遺産。再現不能。使用条件が人間側に依存する音響装置」

父は眼鏡を外し、机に置いた。

「鳴らない方がいい」

即答だった。

「再現性がない。検証不能。責任を負える主体が存在しない」

指で論文を叩く。

「こういうものは、発見された時点で終わらせるべきだ」

アニンの胸に、わずかな安堵が広がる。
理屈が、ここにある。

だが——

「じゃあ、なんで書いた」

マークが唐突に口を挟んだ。

父は視線を落とした。

「……書いてしまった」

「存在を、消せなかった」

沈黙が、重く落ちる。

廊下の奥で足音がした。
チオだった。

彼女は装置を見ない。
見ないまま、空気の違和感だけを拾う。

「……近づくな」

父の声は、ほんの少しだけ強かった。

「それは、君が触るものじゃない」

「どうして」

問いは、単純だった。

「危険だからだ」

「それだけ?」

父は言葉を探す。

「感情に委ねるものじゃない」

チオの眉が、わずかに歪む。

「じゃあ」

声が震えた。

「私が感じたのは、何?」

父は視線を逸らした。

「……それは愛じゃない」

正しかったかもしれない。
だが、届いてはいけない場所に届いた。

チオは何も言わず、家を出た。
理屈だけが、部屋に残った。

煙突街の夜は、まだ完成していなかった。
工場は働き続け、空だけが止まっている。

チオは歩く。
行き先を決めたわけじゃない。

頭に残っているのは、二人の男の輪郭。

背が高く、顔に傷のある男。
そして、危ない匂いのする男。

小さな酒場に入る。
仕事終わりの人間で、空気が濁っている。

「あの……」

視線が集まる。

「背が高くて、顔に傷のある人と、
 もう一人……危ない感じの男、知りませんか」

一瞬の沈黙。

「ああ」

「工房のやつらだ」

「夜になると、変な機械いじってる」

チオは礼を言い、店を出た。
怖さはなかった。
行くべき場所を、もう知っている感覚だけがあった。

一方、工房では空気が張りつめていた。

反重力スピーカーは、作業台の中央に置かれている。
完全に直っている。
それが、余計に不気味だった。

アニンは触れない。
工具を片付ける順番が、やけに丁寧だ。

「鳴らないな」
マークが言う。

「鳴らさない」
アニンは即答した。

「違いがあるのか」

「ある」

説明はしない。

マークは装置から目を離さない。
壊れたものを見る目じゃない。
起きると分かっている事故を待つ目だった。

扉が開く。
チオが入ってくる。

視線が、一直線に装置へ向かう。
名前も、理屈も、評価もない。

「近づくな」
アニンの声は低かった。

だが、チオは止まらない。
吸い寄せられるように、装置の前に立つ。

言葉はない。
代わりに、息が、声になる。

歌おうとしたわけじゃない。
溢れてしまっただけだった。

——その瞬間。

音より先に、重さが消えた。

埃が落ちない。
工具が浮く。
空間が、一拍遅れる。

「……来たな」
マークが呟く。

「止めろ!」
アニンが叫ぶ。

だが、遅かった。

音が、追いつく。

それは轟音でも、旋律でもない。
選択の音だった。

煙突街の影が、ありえない角度で壁に伸びる。

工房の外で、誰かが立ち止まる。
街が、気づき始めていた。

反重力スピーカーは、完全に起動した。

誰かが鳴らしたわけじゃない。
揃ってしまったのだ。

第2章・了


第3章 アニンの星

司令室の扉が、音を立てて開いた。

誰も、死んだはずの人間が入ってくるとは思わなかった。

煤にまみれ、血に濡れ、
それでも——立っている。

「……生きていたのか」

誰かが呟いた。

アニンは答えなかった。
歩みを止めず、司令室の中央まで進む。

あの声の主が、そこにいた。

「死んでも退くな」

命令でも、叱責でもない。
見捨てられたのだ。

上官は言葉を探しているようだった。
正当化か、説明か、あるいは謝罪か。

どれも、遅かった。

拳が飛んだ。

乾いた音が司令室に響き、
上官は椅子ごと倒れた。

誰も止めなかった。
止める理由が、どこにもなかった。

アニンは一言だけ発した。

「保身に逃げたクソ野郎が。」

戦場は、すでに地獄だった。

瓦礫。炎。黒煙。
さっきまで声を出していた場所に、もう誰もいない。

部下たちは、全員死んでいた。

ひとりだけ、まだ息のある中佐がいた。
腹部を押さえ、血を吐きながら、アニンを見上げる。

アニンは何も言えなかった。

命が消える寸前の笑み。

「中佐は……生き残って……ください」

それは戦場に残された声、
願いだった。

その直後、目の光が消えた。

結果として、アニンは生き残った。

理由は分からない。
運でも奇跡でもない。
ただ、生き残ってしまった。

願いを、受け取ってしまった。

軍を離れたあと、アニンは煙突街に流れ着いた。

理由はない。
仕事があった。
それで十分だった。

この街は過去を問わない。
名前も階級も、なぜ生きているかも聞いてこない。

昼は働いた。
黙って体を動かし、音に身を預ける。

夜になると、拾ったガラクタをいじり倒した。

壊れたラジオ。
曲がった鉄。
用途不明の部品。

直す意味はない。
完成させる必要もない。

ただ——

手を動かしている間だけ、
名前を呼ばずにいられる。

夜に、
沈んでゆきながら。

第3章・了


第4章 チオの星

退院の手続きは、淡々としていた。

名前を呼ばれ、書類に署名をして、
「無理はしないでください」と言われる。

病院の廊下は、少し白すぎる。

外に出ると、夕方だった。
煙突街の空は、まだ終わっていない。

チオは歩き出す。
足取りは軽いが、胸の奥は忙しい。

感じすぎる。
それだけで、人は壊れかける。

声の調子。視線の向き。
言葉に含まれた躊躇や期待や嘘。

それらが一度に流れ込むと、
考える前に身体が反応してしまう。

だから、時々ここに戻ってくる。
入院と退院を、季節のように繰り返す。
治すというより、距離を取り直すために。

幼いころ、ピアノは得意だった。

鍵盤に触れると、音は迷わず出てくる。
コンクールで優秀賞を取ったとき、周囲は「才能だ」と言った。

壇上に立ち、拍手を浴びた瞬間、チオは違和感を覚えた。

音が、誰かに見せるためのものに変わっていく。

評価。点数。順位。

音楽が、外に向いてしまう。
それが、怖かった。

歌も同じだった。
上手いねと言われるたび、声が少しずつ遠ざかる。

好きなものが、交換可能な価値に変わっていく。

だから、声は出たり出なかったりする。

家に戻ると、灯りは控えめだった。

父は書斎にいる。
分かっている。

本棚。論文。書き込みだらけのノート。
愛。感情。共鳴。

理屈は、理解できる。
だが、少し遠い。

それでも、人と話しているよりは楽だった。

紙の上では、感情は暴れない。
定義され、枠に収まり、声を上げない。

チオはページをめくる。

外で工場の音が続いている。
街は今日も働いている。
それだけが、確かだった。

ただ、
溢れそうなもの。

それが何なのか、
まだ名前はない。

チオは灯りを落とした。

眠れない夜を過ごすことに慣れている自分がいる。

第4章・了


第5章 マークの星

退院手続きは、驚くほど簡単だった。

名前を呼ばれ、
書類に署名をして、
「ご協力ありがとうございました」と言われる。

病院ではない。
人体実験施設だった。

マークは白い廊下を歩きながら、
腕に残る注射痕を眺めた。

痛みは、もうない。
違和感も、すぐに消える。

金は、すでに振り込まれている。

それで十分だった。

昔は、ドラッグを売っていた。

理由は単純だ。
需要があり、供給できた。

善悪は考えなかった。
考える必要がなかった。

買うかどうかは、
向こうが決める。

自分は、渡すだけだ。

やがて、売るだけでは足りなくなった。

運ぶ。
護る。
撃つ。

気づけば、
傭兵と呼ばれる仕事をしていた。

今も、そうだ。

だが——
何が本業なのかは、分からない。

今回の依頼は、妙に懐かしかった。

依頼主は組織。
財団と名乗っていたが、
名前はどうでもよかった。

「昔、売ってたんだろ?」

面談室で、男は言った。

「今でも、用意できるよな」

マークは笑った。

「金次第だ」

条件は単純だった。

ブツを用意する。

見返りに、
まとまった金。

マークは動いた。

古いルートを掘り起こし、
古い感覚で、ブツを揃えた。

取引は成立した。

——はずだった。

支払われた金は、半分だけだった。

理由はない。
説明もない。

マークは文句を言わなかった。

怒りもしなかった。

期待していなかった。

その代わり、
場所を調べた。

夜。
施設に侵入する。

警備は厳重だったが、
慣れている。

研究棟。
隔離区画。
封鎖された通路。

地下に降りる。

そこで、
マークは“それ”を見つけた。

配線は焼け、
外殻は歪み、
それでも——
ただの廃棄物には見えなかった。

マークは装置に触れた。

冷たい。
だが、死んでいない。

鼓動はない。
だが、終わってもいない。

その瞬間、
彼は理解した。

金はいらない。
説明もいらない。

未来も、
責任も、
信じる理由もいらない。

これは、面白そうだ。

それだけで、
十分だった。

マークは装置を見下ろす。

「これをもらっていこう」

第5章・了


第6章 発動 MOONSHOT

最初に変わったのは、音だった。

反重力スピーカーは、合図を待たなかった。
スイッチも、指示も、祈りもいらない。

音より先に、重さが消えた。

床が、壁が、街が、ほんの一瞬だけ思い出す。
——落ちなくても、いい存在だったことを。

煙突街の夜は、まだ完全じゃなかった。

工場は止まらない。排気は続いている。
それでも、人の足音が消えた。

誰かが立ち止まり、誰かが空を見上げ、誰かが膝をついた。

祈るつもりはなかった。
信じる準備もなかった。

ただ、説明できない何かに意味を与えようとしてしまった。
それが、祈りだった。

高架の下でも、工場の前でも、狭い路地でも。
煙突街は、はじめて同じ方向を向いた。

工房の中で、アニンは拳を握った。

司令室。戦場。見捨てられた声。
生き残ってしまった理由を、ずっと探してきた。

だが、今は違う。

「……今度は」

声は低く、はっきりしていた。

「今度は、俺が選ぶ」

命令じゃない。
保身でもない。

生き残った者の意志だった。

チオは、目を閉じた。

評価も、点数も、誰かに見せる予定もない。

ただ、溢れてしまった。

声は震え、音は形を持たず、
それでも——確かに歌だった。

感じすぎることを、この夜だけは否定しなかった。
名前のない音が、空気を揺らす。

マークは、装置から視線を外す。

面白そうだ、という感覚は消えていない。
だが、その奥に——初めて別の感触が混じっている。

ひとりで越えなくてもいい線、という考え。
それを、悪くないと思っている自分がいる。

反重力スピーカーが、極点に達する。

街の祈り。工房の意志。三つの星。
重なった瞬間、空がひらいた。

破壊じゃない。救済でもない。
発射だ。

「MOONSHOT」
アニンが叫ぶ。

「MOONSHOT」
チオが続く。

「MOONSHOT!」
マークが笑って、夜を貫いた。

三つの声が重なった瞬間、世界は一段階、前に出た。

祈りは音になり、音は軌道になり、
軌道は、まだ名前のない未来を指す。

月へ行くためじゃない。
夢を見るためでもない。

世界を、もう一度信じるために。

三つの声が、消えたあと。

工房に、静けさが戻る。

だが、それぞれの中には、消えないものが残っていた。

アニンは息を整えながら気づく。
あの戦場で止まっていた何かが、わずかに——前へ動いている。

チオは胸に手を当てる。
音はもう鳴っていない。歌も終わっている。
それなのに、空白が怖くなかった。

マークは装置から視線を外す。
面白そうだ、という感覚の奥に、
ひとりで越えなくてもいい線、という考えが残っている。

三人は互いを見なかった。
言葉も交わさない。

だが、同じものを持っているという確信だけが、確かにあった。

それは希望でも、愛でも、答えでもない。
——選んでもいい、という感覚。

それが、この夜を越えて、街へ、そして人々へと、ゆっくり広がっていくことを。
誰も、まだ知らない。

第6章・了

第2部・了

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