第1部 煙突街カウントダウン


第1章 煙突街カウントダウン

朝という言葉は、この街には残っていない。
夜を引きずったまま、煙突街は息を吐く。
熱い白煙が空を汚し、空はそれを受け入れる。
低い振動が地面を叩き、今日も同じ音を繰り返す。
配管の中を蒸気が叫んでいく。

時計は動いているふりをして、何も進めない。
鉄と油の匂いが、時間の代わりに積み重なる。
誰も見上げない煙突だけが、我が物顔だ。

「夢なんて食えねえだろう?
この街じゃ、どうしようもねえよ。」

労働者たちは、毎日のため息を深くしてゆく。

通りには足音が溜まり、流れずに残る。
電車は人を運び、意味は運ばない。
看板の光が瞬きをやめ、色だけが疲れていく。

働くために起き、眠るために帰る。
その往復が、街の呼吸になる。

止まる理由は、用意されていない。
疑う余白も、ここには置かれていない。

それでも――
街は、いつからか気づいていたのだろうか。

始まりの予兆。

空気は、わずかに重さを変える。
鳴っていないはずの音が、壁の内側で反響する。
ほんの一瞬、落下物がズレる。

胸の奥が、先に反応し、
次いで、皮膚がざわついた。

始まる予感が、全身を襲う。
強烈な何かが、確かに動き出している。

その日、ひとつだけ――
音のない振動が、街を逆向きに揺らした。

まるで――
街全体が、カウントダウンを始めたかのように。

ゼロへ向かい始めたのだ。

第1章・了


第2章 指切りげんまん

昼は、まだ街に居座っていた。
夕方と呼ぶには早く、夜と呼ぶには明るすぎる。
煙突街は、その曖昧な時間を引き延ばしながら、
何事もなかったかのように息を吐き続けている。

人々は働き、歩き、帰る。
その順序に疑問を差し込む余白はない。
朝が存在しないこの街では、
始まりを考える必要もなかった。

それでも、どこかで何かが変わっている。

音は鳴っていない。
だが、胸の奥に低い揺れが残り続けている。
耳ではなく、身体の内側にだけ届く感覚。
理由を探そうとすると、すぐに日常が覆いかぶさってくる。

電車は人を運ぶ。
看板は光り、信号は切り替わる。
街は、正しく機能している。

それなのに、
ほんのわずかなズレが、積み重なり始めていた。

通りに足音が溜まる。
流れず、散らばらず、
まるで重さを持ったもののように地面に残る。

誰かが立ち止まったわけではない。
歩く速さを変えた者もいない。
ただ、歩幅が、知らないうちに揃っていく。

胸の奥が、先に反応する。
考えるよりも早く、
皮膚がざわつき、呼吸が浅くなる。

その感覚は、新しいものではなかった。

ずっと昔に、確かにあった。
けれど、役に立たないと判断され、
使われないまま、
どこかへ押し込められていたもの。

思い出そうとしたわけじゃない。
取り戻そうとしたわけでもない。

ただ――
想像してしまった。

もしも、という言葉が、
一瞬だけ胸をよぎる。
今とは違う何か。
別の可能性。
説明できないままの未来。

それは危険でも、現実的でもなかった。
ただ、否定できなくなっていた。

最初は、ほんの一人だった。
次に、少し離れた場所で、
同じように足を止めかけた誰かがいる。

理由を共有しないまま、
意味も確かめないまま、
その感覚だけが、街の中を静かに渡っていく。

急がない。
叫ばない。
それでも、確実に伝わっていく。

夕方の街で、人々は歩き続けている。
仕事の帰り道。
いつもの交差点。
いつもの足音。

その中で、誰かが指を折る。

誰に見せるでもなく、
誰に誓うでもなく、
指を折るという、古い仕草。

言葉は使われない。
使えば軽くなり、
軽くなれば、また置き去りにしてしまうと、
なぜか知っている。

その動きに、迷いはなかった。

願いではない。
祈りでもない。

それは、
一度閉じた扉に、
もう一度、手をかけるという決意だった。

駅前。
商店街の入口。
工場の帰り道。
住宅街へ続く細い路地。

互いを知らないまま、
互いに気づかないまま、
決意のこもった指切りげんまんが、
街中で、静かに重なっていく。

合図はない。
数える者もいない。
揃えようとした者もいない。

それでも、
同じ瞬間に、
同じ約束が、成立してしまう。

街は、何も変わらない。
白煙は昇り、
配管は鳴り、
夜は、まだ来ない。

それでも――
戻れない地点を、確かに越えた。

それが、ゼロだった。

第2章・了


第3章 MOONSHOT

ゼロを越えたあと、世界は壊れなかった。

ただ、
人と人のあいだが、近づいてしまった。

落ちる、という感覚ではない。
上がる、という実感でもない。

ただ、距離が変わった。

胸の奥で、
自分ではない鼓動を感じる。
拒む理由が、見つからない。

恐怖はある。
それは未知ではなく、
一人に戻れなくなったことへの理解だ。

指先に、確かな感触がある。
街で折られた指と、
ここで触れている感覚は、切れていない。

小指は、つながり続けている。

誰かが鳴らした音があった。
世界を変えるつもりはなく、
ただ、鳴らしてしまった音。

重さを持たないはずのそれは、
街に触れ、
人の内側に、理由のない揺れを残した。

思い描いてもいい。
そう思えた、それだけでよかった。

人は思い出し、
互いの内側を、
想像できる距離まで近づいた。

同じではない。
同意でもない。
それでも、分断されない。

満たされていく。
欠けていたものが戻るわけじゃない。
ただ、足りないと感じ続ける必要がなくなる。

解き放たれる。
理由も、正しさも、
留めておく意味がなくなる。

そこへ、遅れてやってくるものがある。

愛だ。

意味を持たないまま、
量だけを増やし、
ついに、堰を越える。

洪水になる。

流される。
流される。
流される。

それでも、
小指は離れない。

夜は、輪郭を失い、
個は、ほどけながら重なる。

一人には、戻らない。
夜に溶けてゆく。

MOONSHOT

第3章・了

第1部・了

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